ドストエフスキー四大長編のキャスティング考えてみた

どこまでも自由に妄想してみた。たまにすでに亡くなられてる方も登場。敬称略。

 

カラマーゾフの兄弟

アリョーシャ 窪田正孝

イワン 藤原竜也

ミーチャ 柳楽優弥

グルーシェンカ 鈴木杏

カーチャ 二階堂ふみ

リーザ 芦田愛菜

フョードル 柄本明

ゾシマ 佐野史郎 米倉斉加年

最初はミーチャとイワンのどっちを藤原竜也にしようか悩んだ。正直藤原竜也は三兄弟全部いけると思う。彼の「大審問官」を聞きたい。法廷で狂乱するところも絶対見事。

男らしい印象が強い柳楽優弥をミーチャに。三兄弟で1番迷ったのがアリョーシャ。原作の透明感を出せる俳優がなかなか思いつかなかったが、「平清盛」などで儚げな役を演じていた窪田正孝を選んだ。

グルーシェンカは色っぽくて情が深く、影がある美人ということで鈴木杏。カーチャは爆発したときの演技が映えそうな二階堂ふみ

芦田愛菜は優等生のイメージで、小悪魔リーズとはかけ離れている気がするが、リーザの年頃の女優で1番演技力があるのは彼女だろうから。

粗暴でろくでなしだが、どこか悲しさと可笑しさがあって憎みきれない父親は柄本明

ゾシマに1番合うのは重厚さと優しさを兼ね備えた米倉斉加年(故人)。次点で佐野史郎だが、ちょっと若すぎる。

 

罪と罰

ラスコーリニコフ 藤原竜也

ラズミーヒン 三浦春馬

ドゥーニャ 長澤まさみ

ソーニャ 宮崎あおい のん

スヴィドリガイロフ 香川照之

プラスコーヴィヤ 高畑淳子

ポルフィーリー 國村隼

藤原竜也ドストエフスキー作品が似合いすぎる。ラスコーリニコフの衝撃的に長い独白は是非とも彼にやってほしい。

昨年の舞台「罪と罰」では三浦春馬(故人)がラスコーリニコフを演じていたが、彼に似合うのは爽やかさ、明るさを持ったラズミーヒンだと思う。

知的で気が強く美しいドゥーニャは長澤まさみ

香川照之はスヴィドリガイロフの気持ち悪さ、邪悪さ、そして哀しさを見事に表現するだろう。

高畑淳子が息子の犯罪に関する謝罪会見を開いたとき、彼女とプラスコーヴィヤが重なった。どうしようもない息子を愛さずにはいられない母親という点で。

ベテランの刑事役は國村隼以外いない(安直)。

宮崎あおいのソーニャは聖女感が出るだろうし、幸薄そうで似合う。でもソーニャで真っ先に思いついたのがのん(能年玲奈)だった。圧倒的な透明感と浮世離れした感じはまさにソーニャ。ただのんだと、他のキャストと年齢差がありすぎて浮く気がする。

 

【白痴】

ムイシキン公爵 堺雅人

ロゴージン 塚本晋也

ナスターシヤ 宮崎あおい 松たか子

アグラーヤ 菅野美穂

原作より全体的に年齢が高めになった。ムイシキンの愛らしさ、白痴と呼ばれる純粋さ、そしてキリストっぽさを表現できるのは堺雅人しか思いつかなかった。

塚本晋也はひげもじゃも、屈折した役もよく似合う。

宮崎あおいはソーニャよりむしろナスターシヤのイメージ。男を徹底的に振り回して破滅の道に進んでいく美女。このキャラクターは松たか子でも見てみたいと思った。

かわいいけど癖強め、というか恐ろしく気と嫉妬心が強いツンデレを演じられて、なおかつ他のキャストと年齢の釣り合いが取れる人は菅野美穂しか思いつかなかった。

 

【悪霊】

スタヴローギン 藤原竜也

ヴェルホヴェンスキー 柄本佑

キリーロフ 風間俊介

シャートフ 松田龍平

リザヴェータ 宮崎あおい

ダーシャ 松岡茉優

マリヤ 尾野真千子

ワルワーラ キムラ緑子

ヴェルホヴェンスキー氏 尾美としのり

藤原竜也乱発しすぎ。でも本当に藤原スタヴローギンは見たい。

スタヴローギンの腰巾着だけどそこ知れない薄気味悪さがあるヴェルホヴェンスキーは柄本佑

いいやつだけど癖と影が強くてめんどくさいところがあるキリーロフは風間俊介

シャートフは迷った。不器用で怒りっぽいけど優しくて愛情深い彼には松田龍平を。

宮崎あおいも乱発している。リザヴェータが割とナスターシヤに似ている気がするので。

ダーシャも迷った。スタヴローギンの全てを受け入れようとする「看護婦」には、優しい印象の女の子が合うかなと。

マリヤはマジで困った。狂人でときにはまともに意思疎通できない人の演者をどう選んだらいいのかと。結局どんな役でも出来そうな人を選んだ。

ワルワーラは、女捨てた感じが出る人じゃないと合わない。彼女を演じるであろう年代の女優は美魔女系が多くて困った。居丈高だけど面倒見がいいキャラクター。

ヴェルホヴェンスキー氏はさっきのヴェルホヴェンスキーの父親。知的だがさっぱり頼りにならず浮世離れした彼に尾美としのりを選んだのは完全に「あまちゃん」の影響。

 

かなり長くなったけど楽しかった。「罪と罰」の舞台は昨年上演されたが、他のドストエフスキーの作品はなかなか題材に選ばれない。長すぎるのが最大の理由だろうが、二部制にするなどして是非試みてほしい。ストーリーは本当に面白いから。

NHKの「蜘蛛の糸」 または幼少期のトラウマ

人間誰しも、子どもの頃目にしてトラウマになったものはあるだろう。

私は人一倍どころか人五倍くらい怖がりだったので、そうしたものも多い方だと思う。

最たるものが、NHK教育で放送された「蜘蛛の糸」の人形劇だ。

赤っぽい不気味な画面とストーリーの残酷さに、5歳だった私は震え上がった。

そしてそれ以降、地獄と死を連想するもの全てに恐怖を感じるようになった。

今でも思う。NHK教育で一体なぜあそこまで怖いものを流したのかと。

 

やはりNHK教育の「にほんごであそぼ」で地獄の歌が流れていたことがあった(歌詞も曲も、今でも完璧に覚えている)。その度に私は「こわいこわい」と母にしがみついて泣きじゃくっていた。母は困惑しただろう。

 

毎週見ていた「かいけつゾロリ」シリーズも、「じごくりょこう」の回だけは怖くて見られなかった。コメディシリーズなのに。

 

風呂に入るときは、よせばいいのに床が真っ二つに裂けて地獄に引き摺り込まれるところを想像して怯えた。自分で想像したイメージに自分が怯えてどうする。

 

足利事件や松本サリン事件の冤罪を知ったときは、自分が冤罪をかけられて死刑にされて地獄に連れて行かれるところを想像してべそをかいた。だから自分の想像に怯えるのはやめろ。

 

6くらいには、死や地獄という単語に異常な反応をすることは自然となくなった。成長すればおさまるものだったのだろうが、それにしても「蜘蛛の糸」のトラウマは約5年間続いたのだ。

恐怖とはいえ、人間の心をこれほど強く揺さぶれるのは芥川もNHKも大したものだと思う。

 

ちなみに大学生になり、芥川龍之介にはまって「歯車」や「影」、さらには「地獄変」などは繰り返し読んだが、どうしても「蜘蛛の糸」だけは読み返す気になれない。

テレ朝「妖怪シェアハウス」にハマった

現在テレ朝で放送中の「妖怪シェアハウス」が良い。

恋人に裏切られて職と家を失ったヒロイン澪がお岩さん、座敷童、ぬらりひょん酒呑童子と共同生活を送り始めるというストーリー。

物語の突飛さと、妖怪たちのキャラ設定(浮気した男には徹底的に復讐するお岩さんなど)が面白そうで見始めたが、かなりストレートなフェミニズムドラマだ。

初回は、澪を裏切り貢がせていた男に、妖怪たちと共にヒロインが復讐する話。

第2回は、就活セクハラを受けた澪が、妖怪たちとセクハラ男を成敗する話。

現実では大抵のセクハラ男は、社会的制裁を受けることは少ないが(私にセクハラした糞爺も、今でも元気に大企業の重役やってるし)、ドラマを見てスッキリできた。


澪が虐げられるとお岩さんは真っ先に立ち上がり、澪に戦う力を与える。

この女同士の友情と連帯がとても素敵。ヒロインを救うのがイケメンのヒーローではなく女友達というのは、意外と民放ドラマで描かれることは少なかったと思う。

女同士はドロドロしているという偏見はいまだにあるし、私自身、男性に面と向かってそう言われたこともある。その偏見を取り込まず、澪とお岩さんが当たり前に協力できる関係が描かれていて嬉しい。


ぬらりひょん酒呑童子のキャラクターも良い。2人は男性だが、女性を虐げる側には立たず、澪とお岩さんが立ち上がるときには共闘する。

ぬらりひょんは社会にいまだ残る女性差別の問題をよく理解しており、それに憤っている。

酒呑童子は普段、ぬらりひょんほど差別への関心は無いが、卑劣な男性を前にしたときは激怒して共に制裁する。

女性を虐げる男性がいたときに「全部の男がそうじゃない」とか「澪にも落ち度があった」などと、被害者の口を塞いだりせず、被害者の側に立ってくれる。

ぬらりひょん酒呑童子みたいな男性が社会に増えたらいいなあと思った。


3回もとても楽しみだ。

願わくば、最後まで澪とお岩さんの絆をメインにして、恋愛はたとえ今後出てきたとしても薄めにしてほしい。

ルッキズムと自己矛盾

私は人の容姿をあれこれ言う人が嫌いだし、そういう人を軽蔑している。

「ブス」や「デブ」といった言葉は、冗談や自虐でも口に出したくない。「うんこ」って言うのに抵抗があるのと同じ感じ。

民放のテレビ番組では、美人扱いされていない芸人が過酷に体を張った企画をさせられていたり、容姿を馬鹿にされていたり、彼ら本人が進んで自虐をしたりしていることがよくあって、見るのが辛くなることがある。


容姿に強い劣等感を抱え、整形を繰り返す人を見れば、美容整形よりもカウンセリングに通ったほうがいいんじゃないかと心配になる。

容姿は人間の一部分でしかない。容姿に自信が無い人は、別のことを頑張ればいい。容姿が悪くたって、学歴や技術を身につければそれなりに生きていける。

容姿が必要になる特殊な仕事をしているわけでもなければ、人生において容姿が必要なことなんて恋愛くらいだろうし。仕事や家と違って、人間は恋人がいなくても生きていける。孤独を感じるなら友だちを作ればいい。


そう思っているのに。

そう信じているのに。


私は容姿への強いこだわりを消すことができない。他人が太っていようが美人でなかろうが見下してはいない。でも自分が太ること、今より更に不器量になるのはすごく嫌だ。これは他人が太るのも否定することに繋がるから、よくないのはわかっているのだけれど。

私は容姿で生きていくタイプではないのに。男の人に頼らなくても生きていけるように勉強して技術を身につけたのに。

太るのが怖くて、低糖質ではないアイスを食べられない。麺や米は半分残さないと気が済まない。誕生日にもケーキは食べなかった。美人でないから、せめて痩せていないとという強迫観念。シンデレラ体重を切っていないと落ち着かない。食べるのが楽しくない。


本心からルッキズムを否定しているのに、きっと人より容姿に囚われている矛盾。そんな自分がとても恥ずかしい。

今更「ハイスクールミュージカル」について

ハイスクールミュージカルにはまった時期があった。

勉強漬けの高校生活を送っていた私は、トロイたちを見て「全然勉強してねえなこいつら」と思いつつも、綺麗な衣装を着て素敵な恋人がいる彼らに憧れたものだ。

 

曲は31番好きだけど、今になって思えばストーリーとキャラクターの設定が成立しているのは1だけだと思う。

というか、13までストーリーはほぼ同じだし。

最初ラブラブなトロイとガブリエラすれ違い等何らかの理由でガブリエラが離れるトロイがガブリエラを迎えに行く(2では彼女が自分から戻ってくるけど)→みんなで歌ってハッピーエンド!

の繰り返し。

 

トロイのバスケも、ガブリエラの秀才も、2以降ではただの設定になってしまった。2は夏休みで、3は部活引退後だけど、トロイは全くと言っていいほどバスケの練習をしていない。お前本当にバスケ好きなのか。そもそもバスケって、トロイとガブリエラの関係における障害としてしか位置付けられていない気がする。バスケを頑張ろうとするとガブリエラと一緒にいられない、という展開ばかりだし。

ガブリエラに至っては、2以降はただのヒロインに成り下がっている。1ではパーティーの間も夢中になって本を読んでいて、爪のお手入れなんてしなかったガブリエラ。2でも3でも本を読む場面すら無くなったし、衣装も華やかで、爪のお手入れ絶対してる。

バスケ漬けの少年とガリ勉で地味な少女の物語が、容姿が綺麗な陽キャ同士の話になったのだ。

 

歌詞とストーリーが完全に矛盾していることもある。

シャーペイは1の最後で「みんなが主役!」と歌っていたけど、2でも3でも周囲を出し抜いて自分だけが主役になろうとするのをやめない。学んでいない

 

何より「みんなが主役」というけど、トロイとガブリエラ以外は脇役としての扱いでしかない。2人の親友のチャドとテイラーの内面が掘り下げられたこと、1回でもあったか?チャドはトロイとバスケがしたい以外の心情が描かれなかったし、テイラーは意外にロマンチストくらいしか無かった。チャドとテイラーだって2人の大学が遠くて悩むことがあったはずだし、出来すぎる親友に嫉妬することがあったって不思議じゃない。

 

ここまでボロクソ言ってきたけど、曲は好きでしょっちゅう聞いてる。

 

最後に、ちょっと変な場面が多かった3のツッコミどころを少し。ツッコミながら見るのは結構楽しかった。(性格悪いか)

ロケットマンが試合に出たとき、代わりに誰がベンチに戻ったんだろう…

・休み時間に雨の中踊ってびしょ濡れになったトロイとガブリエラ。そのまま授業受けるの⁈

帰宅するときには完璧に乾いていて髪も乱れていないガブリエラすげえな。

・トロイが夜の学校で荒れる場面。トロイたちの写真の幕(こんなん貼るのも相当だが)があっさりはがれすぎ。あれじゃあ風で飛ぶだろ。

・シャーペイを出し抜くためにロンドンの名門演劇学校から転校してきた。シャーペイたちの演劇部、どれだけ強豪なんだよ。

部員はシャーペイとライアンしかいなかったっぽいけど

・ミュージカルでマイク無し⁈(1では舞台の上で歌うときはマイク持ってる)

・劇中劇としての扱いだったa night to rememberが、本番の舞台で消え去っていた。シャーペイが出し抜かれる場面で歌われていたけど、みんなでものすごく練習したであろうダンスは本番でカット?

・ミュージカルをガブリエラの母が見にきてる。トロイとガブリエラはトロイの運転でボロボロのトラックに乗って高校に戻ってきたけど、ガブリエラママもトラックに一緒に乗ってきたんだろうか。

飛行機代出してあげてママ。

・トロイが出した花束。あれは撮影中のサプライズらしいが、知らずに見ていたら誰が用意したんだろうってなる。トロイには花束隠しておく暇は明らかにない。

・ジュリアード奨学生の発表が舞台中。一旦持ち帰って最終検討とか無いんだ。シャーペイの出演シーンがギャグだったのはシャーペイのせいじゃないし、事情を考慮せず舞台の様子だけでその場で決めるのはちょっとかわいそう。

 

映画「黒い雨」(1989)

注;ネタバレあり。

 

 

原爆投下後の広島の様子は残酷で恐ろしくて何度も息を呑んだし、思わず目をそらしてしまったところも。

やはり強烈だったのは、竹林で重松らと出会う男性の告白。瓦礫の下敷きになった息子を助けられず、火の手が迫ってとうとう息子をおいて逃げてきたという。親は命にかえても子を守る、という前提が社会にあって、きっとその男性もそう思っていた。それなのに我が子を見捨てて逃げる罪悪感、そして子をなくす悲しみ。見ていて涙が溢れた。

 

田中好子演じる矢須子が健康的で可愛らしい。ある友だちが「昔のアイドルや女優さんって痩せすぎてなくて素敵」と話していたのが分かった。今の若い女優さんで、あの矢須子の生命感、健やかさを表現できる人はいないのではないか。矢須子は原爆の恐ろしい記憶と、原爆症発病の恐怖を抱えて暮らしているわけだけど、ぴちぴちという言葉が似合う娘で、今のトレンドの儚さみたいなのは感じない。この映画を観る人の多くは矢須子がどうなるのか大体知っているから、その健やかさが常に切ない。

原作で矢須子は、縁談が進んで浮き立つ気持ちでパーマをかけに行っており映画でも矢須子の髪型はセミロングのパーマ。直接描かれていないとはいえ、うきうきと美容院に行ったのだろう。矢須子の髪が抜け落ちる場面は、数年間の平穏な生活、そして希望が消え去るように感じた。

 

原作と大きく違うのは、重松の村の二次被爆者がほぼ全員亡くなること。小説版では最後まで原爆症を発病しなかったシゲ子までが死んでしまう。原作の終盤、原爆投下後広島に入った集団がその後全員死亡した例が列挙される。この映画はそれらの集団の悲劇を重松の村で描いたのではないだろうか。みんな死んでしまったのに、世界のリーダーたちは核兵器を手放そうとしない。彼らは「正義の戦争より不正義の平和がまし」だと気づいていないのだ。

 

映画オリジナルのキャラクターであるユウイチは、矢須子と傷を癒しあうようになる。普段は優しくて静かなユウイチは、エンジンの音を聞くと戦場に引き戻され、車やバイクに突撃してしまう。

ラストシーンで容態が急変した矢須子。彼女を抱き抱えて救急車まで運ぶユウイチは、エンジンの音でパニックを起こしかける。しかし踏みとどまって矢須子を救急車に乗せ、何と彼自身も同乗して病院に向かうのだ。「病気に気持ちで負けてはいけない」と重松は矢須子を励ました。

「今あの山に虹がかかれば、奇跡が起きて矢須子は助かる」と重松は念じる。ユウイチはあの瞬間、一時的かもしれないが病気に気持ちで勝つという奇跡を起こした。虹はかからずとも、かすかな希望が残る結末だった。

手越祐也さんの暴露本について

私の友人に手越担がいる。

何度手越さんが女性スキャンダルを起こしても心折れなかった彼女は、今も手越さんを推している。

「誹謗中傷に負けない」「この世の中は本当のことを言うと迫害される」

キリシタンさながらである。

誹謗中傷され、迫害されている人がいるとすれば、この場合手越さんであろうが、ファンは推しと一体であるらしい。

やっぱり宗教だ。


私は個人的に、今回の暴露本は「ちょっとないな…」と思った。

私も友人に何度もコンサート映像を見せられて、手越さんって綺麗な顔だなあとか声だなあとか思っていたけれど、それにしても一連の騒動はちょっとない。手越の顔なんざ死ぬまで見たくねえわってほどじゃないけど。あくまで軽く引いたって程度。


1番気になったのは、現役アイドルの女の子の名前出すのって、どうなん?ということ。

私はジャニーズの中の人間関係なんて知らない。手越さんの交友関係も。でも、彼と有名アイドルに熱愛報道が出たことは私も知っている。あのとき彼女はスルーを決め込みほとぼりが冷めるのを待った。それから何年も経っているのに、手越さんひとりの都合で蒸し返されて気の毒だ。

そして、男3人女1人の旅行だというのが本当なら、それをばらしたのも最悪。ぶっちゃけ真剣交際ならまだ許されるよ。遊び人の男に引っかかってつい本気になっちゃったけどあっさり捨てられた、だいたいみんなこんなストーリー予測してたでしょ。

あの暴露じゃ彼女が尻軽女みたいに見られるでしょうに。

彼女は、あれから恋愛スキャンダルを起こすこともなく(私が知らないだけかもだけど)、きっと反省して頑張ってきたのに。


暴露本出すなら、「ジャニー喜多川による虐待」とか、「元SMAPへの圧力」とか暴露してくれれば、私は支持したと思う。

でもそうじゃなかった。強者による理不尽を告発して戦うタイプの暴露ではない。出しても手越さん自身は大したダメージおわないことしか出してない。それでいて周りに迷惑かける暴露はする。今回引いたのはそこ。


ちなみに。

ツイッターで見かけた手越担の女性は、暴露本発売で「もう無理ついていけない!」と担降りしかかってたけど、今日(8月6日)の手越さんの病みストーリーを見て、「やっぱり私が支えなきゃ…」と彼のファンクラブに入会していました。

ハムレットの「弱きもの、汝の名は女なり」をふと思い出した。意味もシチュエーションも違うけれど。

彼女がファンクラブ入るか迷っていたとき、フォロワーの1人に「一晩我慢すれば明日はきっと少し楽になる。その繰り返しだ」となだめられていた。やっぱりハムレットだ。