映画「静かな生活」観ました
伊丹十三監督・脚本の「静かな生活」をツタヤで借りてきてみた。
もともと大江健三郎の「イーヨーもの」とでも言うべき作品が好きで、この映画となった「静かな生活」のほかに「恢復する家族」「新しい人よ眼ざめよ」、そして「個人的な体験」なども読んできた。
そういう意味でひいき目にはなってしまうが、私はとても良い映画だと思った。
以下、映画の結末を含むネタバレがあります。
まず、ひとつひとつの場面が丁寧に作り込まれていることに驚いた。
日本にあるパパの書斎と枕元、オーストラリアのパパの住居(8か月ほどの仮住まいであるのに)も本でいっぱいだ。本の山という視覚情報により、パパが作家であるということに説得力が出ていた。なんというかすごく、「作家の自宅」であることにがしっくりくるのだ。
また、マーちゃんとイーヨーが一緒に電車に乗っているときにイーヨーの調子が悪くなってしまい、乗り合わせた少女に「落ちこぼれ!」と言われてしまう。この少女みたいに酷いことを言う人は世の中に多くないだろう。しかし少女の周りの乗客たちは、怒りはせずともなんとも困ったような、自分に危害が及ぶのではとおびえたような表情をしている。乗客が単なる電車内の風景ではなく、イーヨーたちがうける逆風を象徴していた。私は電車で、自分とは立ち居振る舞いが違う障がい者が乗り込んできたとき、こんな顔をしてしまっていることはないだろうか?とはっとさせられた。
この映画について多くの人が語っていることだが、音楽も美しかった。ときに明るく、ときに切ないのだが、常に柔らかさ、優しさがある。イーヨーの魂の清らかさが表れているように思う。今回のBGMがすごくよかったこともあり、大江光のCDを注文した。
印象に残ったキャストとして1番最初に思い浮かぶのは、ほとんど出ずっぱりということもありやはりイーヨーだ。私には障がい者の知人はいないので、彼の演技がリアルであるかということは、わからない。しかし後半でイーヨーが恋したお天気お姉さんの言葉どおり、透き通るような表情に心の綺麗さが溢れていた。何より、作曲時の自分の世界に入り込んだときの表情が見事だ。清らかさはそのままに、芸術家の顔をしていた。
登場シーンは少ないがオーちゃんのひょうきんさにも好感を持った。マーちゃんとイーヨーふたりの物語にするためだろうか、オーちゃんは原作と比べてかなり出番が少なくなっており、理屈っぽくて若者の少々憎たらしい感じも薄れている。イーヨーとオーちゃん、しっかり者のマーちゃんの3人はすごくバランスが取れた、良いきょうだいだと思う。
パパは出番こそ少ないが、要所要所で強烈な印象を残して行った。彼の「祈り」に関する講演にはうるっとくるものがある。言葉を発さなかったイーヨーがパパに肩車されて「クイナです。」と言った瞬間のパパの驚きと、もう1度クイナが鳴いてくれないだろうかという「祈り」。2度目の「クイナです。」までの間ににじみ出ていた。
個人的にすごく好きなのが団藤さんの奥さんだ。エネルギーにあふれた元気な人であると同時にすごく考え深い人。だからこそ団藤さんとマーちゃんに絶対に必要な人。
なお、ポーランドで団藤さんが政府高官に「そんなことをしていて何が共産主義だ」と英語で怒鳴りつける場面があったが、確か原作ではポーランド語だったはずだ。ポーランド語にすると観客が理解できないうえに、彼の本業が東欧文学者であるという設定が無くなっていたので英語にするほかなかったのだろうが、ポーランド語で高官に怒鳴るという独特のかっこよさが省略されたのは、少し残念だった。
障がい者の兄の世話をする妹、彼らが社会で直面する偏見、精神的な「ピンチ」のため不在の父。かなり深刻な内容なのだが、これを和らげるユーモアが随所にある。原作も結構ユーモラスな場面が多く、作品のテンションは原作通りだと感じた。
意気揚々と排水管の掃除をしたものの、大失敗してしょげかえり、何時間も(庭の明かりの変化で時間の経過が表されていた)うつむいて、膝を抱えてしゃがみこむパパ。映像の力もあり、ノーベル賞作家(をモデルとした人物)に一体何をやらせているんだと、原作を読んだとき以上に笑った。
自殺の実験をママに見つかって叱られたときも、本気で慌てたパパのしぐさはコミカルだった。
例の、電車で「落ちこぼれ!」と言われた一件のあと、料理中にそのことを聞いた団藤さんの奥さんが何かの生地を台に叩きつけながら怒るのだが、そのときに思いっきり粉が舞い、隣に立っているイーヨーがそれに閉口した顔をする。あのねイーヨー、この人はあなたのために怒ってるのよ、粉どころじゃないでしょう。でもこのイーヨーのおかげで、ショックを受けていた観客も一息つくことができるのだ。
マーちゃんと団藤さんの奥さんが、新井さんの事件の映像を見ているとき、暗いBGMが流れている。その裏でイーヨーの「ろっこつ」を聞いていた団藤さんは、映像が終わったタイミングで、「イーヨーの音楽を聴くと心が癒されるねえ」なんてのんきなことを言いながら出てくる。心が癒されるって、今流れていたのは怖いBGMなんですが…と突っ込みを入れたくなったので、間違いなくこのタイミングと台詞は狙ってやっていると思う。
原作では仏文科の学生で、セリーヌの研究をしていたマーちゃんは
映画では絵本作家を目指し、家族のことを絵に描いている。セリーヌの章は原作でも最も難解な部分なので、カットしたのは正解だと思う。大江健三郎の妻ゆかりさんは写生をする人で、彼女が書いた家族の絵は「恢復する家族」の挿絵にも使われている。ゆかりさんの絵の要素がマーちゃんに託されると同時に、映画ではパパは小説、イーヨーは音楽、マーちゃんは絵と、主要な人物それぞれが表現する方法を与えられているのだなと思った。映画では一切語られなかったが、マーちゃんが選んだのが絵本なのは、イーヨーが読んで楽しめるからだろうか。
終盤でマーちゃんがイーヨーの水泳コーチ新井さんに乱暴されそうになる。そこでいつもマーちゃんに守られていたイーヨーが、あれだけ慕っていた新井さんにとびかかり、妹を助け出すのだ。この場面は原作と映画で若干の違いがあり、原作でマーちゃんは助けを呼ぶために、イーヨーと新井さんを残してマンションから飛び出す。作中はじめてマーちゃんが「逃げる」のだ。家に変な水を持ってくる不審な男を、ひとり自転車で追いかけたマーちゃんが。結局助けてくれる人は見つからず途方に暮れていたマーちゃんを、イーヨーが迎えに来る。
映画版ではマーちゃんは逃げずに、部屋にあったヨットのオールで新井さんを殴りつけて、イーヨーと二人でマンションを飛び出す。泣き崩れるマーちゃんをイーヨーが慰める、という流れだった。そこに新井さんがふたりの荷物を投げつけるのだが、その中に彼が「プレゼントする」と言っていた水泳教本があり、なんともやりきれない思いがした。
イーヨーの家族愛と成長が最も表れる感動的なシーンであると同時に、原作では助けてくれる人が見つからないし、どっちにしても新井さんはおそらく一生このままだし、結構切ないシーンでもあると思う。ここでイーヨーの「マーちゃんは大変でしたが、私が戦いましたからね。」が僅かな救いになっていたのではないか。
大江健三郎の「静かな生活」だけでなく「恢復する家族」も映像になっていて、両方読んだ者としては嬉しかった。イーヨーの「元気を出して、しっかり死んでください。」というセリフは「恢復する家族」のもので、言葉のチョイスは間違いなのだろうけど、そんな彼の言葉がおばあちゃんを大いに励ますというエピソードになっていた。ちなみにこの話、私が小学生の頃に解かされた国語の問題に出てきた事が有り、先月約10年ぶりの再会を果たした。
イーヨーがお天気お姉さんに恋をする話は完全に映画オリジナルだ。(というか、イーヨーの恋愛に関する話はどの小説でも読んだことがないと思う)しかしこの中にも、「恢復する家族」からとられたと思われるモチーフがあった。絶対音感を持つイーヨーはお姉さんに初めて会ったとき、天気予報の時よりもお姉さんの声が「一音高い」と指摘する。そしてこの恋が終わるとき、お姉さんの別れの言葉が「一音低い」と言う。
「恢復する家族」では、電話をとったイーヨーが、電話口の知人の声が「普段より一音低かった」と口にする。その翌日、知人は急死するのである。
ついでに言えば、お姉さんとイーヨーのあいさつとなった「予報」は「雨」だった。この予報は外れていたけれど、これはお姉さんの行く末の予報だったのではないか。柄が悪い男と共に去っていったお姉さんが幸せになれたとは思えない…。
大きな違和感を覚えた点が1つある。パパの小説の再現部分だ。思いを寄せる少女を手にかけてしまった少年は「自分の人生が終わった」ことに愕然とし、現れた浮浪者は少年をその境遇から救うことにする。
マーちゃんは浮浪者の感情を分析しているが、作中誰も、突然現れた高校生に、無残に命を絶たれた少女に心を寄せない。同じ女性であるマーちゃんでさえもだ。
劇中劇の本筋がそこではないのは分かっているのだけれど、どうしても、少年を絶望させるためだけに登場し、殺されたような少女の扱いがひっかかってしまった。現代この映画がもう1度作られるとしたら、おそらくこの場面には何らかの変化が加えられることだろう。
子どもが自分に向けられる視線に気づく日
【注意】今回のブログには、直接的ではありませんが、性的嫌がらせの内容が含まれます。トラウマ等がある方はブラウザバックお願いいたします。
「女子中学生」「女子高校生」がエロコンテンツとして扱われることに初めて気づいたのは、12歳の頃だったと思う。
きわめて幸運なことに、私は痴漢に遭ったことがない。中学時代は駅が家から遠かったので、出勤ついでに父が車で学校まで送ってくれた。高校と大学は徒歩圏内だった。
だから制服姿を厭らしい目で見られたり、触られたりという目には直接的には遭わずに済んだ。
一方で幼い私が気づいたのは「中学生」「高校生」という記号のエロコンテンツ性だ。
中学時代、私は地方局が制作していた番組に時たま出演していた。
中学生の恋愛について語る回がオンエアされた後、ちょっとドキドキしながら自分の名前を検索してみたのである。番組関連で何か出てこないかな、程度の気持ちで。
ヒットしたのは、画面の両サイドの柱で、中学生の女の子の水着DVDの広告がびっしりと貼り付けられたロリコンサイトだった。
顔写真等は載せられていなかったが、私のフルネームと番組内でのコメントはまとめられていた。
私はその時初めて、私が出ていた低視聴率の、中学生向けの番組を見る「そういう大人」がいることを知ったのだ。顔が見えないこの大人に、画面越しとはいえ自分の姿を見られ、声を聞かれたということにぞっとした。
次に「そういう大人」の存在を感知したのはそれからすぐのことだった。
ガラケー全盛の時代、月に1度は「メアド変えました。登録お願いします。」のメールが来たものだ。
その日もいつものように「メアド変えましたメール」を受け取ったのだが、送り主の名前が書いていなかった。書き忘れたのだと思い「いや誰⁈」と返信すると、男友達の下の名前が平仮名で送られてきた。今となってはなんて馬鹿なんだろうと思うが、12歳の私はてっきりその友達だと思い込み、何度かメールのやりとりをしたのだ。
ある晩、そのアドレスから男性のアレの画像が送りつけられてきた。私は最初それが何なのかもさっぱり分からずしげしげと画面を眺め、ようやく何が送られたのか理解し、メールの相手が友人ではないと知った。
アドレスを着信拒否したうえで最初の「メアド変えましたメール」の送り先欄の一斉送信をクリックしてみると、20ほどのアドレスが並んでいた。
それらは全て
〇〇〇〇1998@ezweb〜
の文字列。〇〇〇〇は全て、たとえばyumi だのminaだの、女の子の名前だった。名前だけを変えて、その後の1998を固定して、数十のアドレスを作っていたことになる。(存在しないアドレスも当然多くあっただろうが、それはどこにも届かないだけなので関係ない)
アドレスに1998の数字列を使うのは1998年生まれの子ぐらいのものだろうし、その送り主は1998年生まれ(当時12歳)の女の子に狙いを定めてメールを送ったことになる。
私は写真がソレだと気付いた時よりも、並んだアドレスを見たときの方が背筋が冷えたのを覚えている。12歳の女の子に対する強い執着が現れており、自分が何に晒されて生きているのか、おぼろげに理解した瞬間だった。
お馬鹿だった私も、無事に高校に合格して制服を買ってもらった。私たちの制服は県内で少し有名だったので、ネットで何か書かれていないのかとまたもや検索した。(ここまで読んでくださった方はお分かりだろうが私はパソコンを使わせてもらいはじめてすぐにエゴサを始めた。今もちょくちょくしているが、もうほとんど何も出てこなくなった)
とある制服の中古販売サイトにヒットした。自宅で撮影したのであろう写真が並んでいる。女の子が、あの私が着ることになるセーラー服を着て写っていた。スカートは異様なまでに丈を短くされて太ももが見えていて、目は黒い線で隠されていた。売り物は制服で、女の子の顔は隠されているのに、彼女はまるで本人が売り物であるかのように、短いスカートを手で広げ、もう片方の手でピースサインをして、小首を傾げていた。これを買う人がいるのか。
制服が、「女子高生」が売られていた。
どうして思春期の女の子はエロコンテンツ扱いされるのだろう。その時期を通ってきたのではっきり言うが、人生の中ではそこまで綺麗な時期ではない。(母は「さなぎの時期」と呼んでいる)
どうしても太る時期であるし、子どもの顔から大人の顔にうつり変わる時期で、顔立ちも不安定かつアンバランスだ。ニキビだって出る。最近卒業アルバムを見返して、当時の自分のあまりの醜さに驚いた。(別に今は綺麗とかそういう話ではない)
だから女子中学生や女子高生を厭らしく目で追う人たちは、彼女たち自身ではなく、コンテンツの幻想を見ているのだと思う。それですむならまあよいのだが、実際は痴漢や盗撮という形で生身の彼女たちの身体を浸食する人間のなんと多いことか。
女の子の身体は空っぽの入れ物ではなく、彼女たちの精神とセットで、彼女たちだけのものだ。
他人が見て喜ぶために存在しているものではないということに、どうか社会の大人全員が気付いてくれますようにと、切に思う。
村田沙耶香「しろいろの街の、その骨の体温の」
長さとしては一応長編になるのかな。
以下、ネタバレを含みます。
「コンビニ人間」以来村田沙耶香は好きで、「消滅世界」や「殺人出産」などを読んできた。「恋愛って何なのか」「家族って何なのか」「そもそも家族や夫婦は必要なのか」「夫婦に性交渉は必要なのか」「パートナーは1対1でなければだめなのか」など、社会で当たり前として通っていることにことごとく「なんで?」「ほんと?」と極限的な作品世界で突き付けてくるの作家だ。
この「しろいろの街の、その骨の体温の」は異性愛、異性間の性交渉に帰結する物語であるので、上記の3冊と比べると割と穏当な印象はある。とはいえ主人公の結佳は同級生の伊吹に無理やりキスをし、彼を「おもちゃ」にするし、脅迫して意のままにすることさえある。
多くの異性愛小説や漫画が男=主導権を握る側、女=支配・保護される側という構図から脱却できていない中で、結佳はこの構図から完全に逸脱しているし、伊吹に対する言動は正直気持ち悪い。ただその気持ち悪さを結佳は自覚していて、「恋とは発狂することだ」と言う。
村田沙耶香の小説に出てくる子は大体ぶっ飛んでいる(まあ結佳がぶっ飛んでいないかというと、相当ぶっ飛んでいるわけだけど)ので、普通の学校生活をどうにか頑張る、という女の子の話は初めて読んだ気がする。学校における女の子の描き方がまたすごく生々しい。
この小説の女の子たちには漫画のヒロインのようなかわいらしさは全くないし(というか思春期の子供ってこんなものだと思う)ドロドロの感じも、いわゆる「女ってこえー(笑)」というコンテンツ化されたドロドロと違って、自尊心を守るための必死の戦いだ。ついでにこの年代の男の子のイタさも結佳によってかなり観察されていて、男性読者も赤面しながら読むことを余儀なくされそうだ。
この小説の舞台は開発が続く街だが、小4~中2の結佳の世界の多くが学校である。聡く感じやすい結佳はこのカーストを敏感に察知し、分相応をわきまえて学校生活を送ることに必死になる。その意味で、教室内のピラミッドが、もう1つの舞台といえるかもしれない。
私はこのカーストがよくわからないまま大人になった人間、学内の人間関係の切実さがいまいちピンとこなかった。その意味で私は作中結佳の言うところの「幸せさん」だが、別に「身分が高い」人だったわけではない。多分精神年齢が低すぎて、ピラミッドが見えていなかっただけだ。
小4の時点で、結佳のクラスメイトである若葉ちゃんは人形遊びに飽きて、指輪やヘアアクセサリーで自分を飾ることに興味が移っていた。それを察知して若葉ちゃんに合わせることができる結佳も、相当大人びている。中学生になっても人形遊びを卒業できず、母親に気味悪がられた私とはすべてが違う。コイバナより人形遊びがしたいと言って、若葉ちゃんにうっとうしがられる信子ちゃんに、私はむしろ近かったはずだ。思春期の頃の自分の幼さに改めて気づかされた。クラスのみんな、ごめん。
中学に入ると、女子のグループ分けに男子の目が加わる。「身分が高い」男子は地味な女の子のことを平気で「ブス」と蔑み、汚物のように扱い、彼女たちの自尊心をズタズタにしていく。読んでいてすごくヒリヒリした。
私はずっと、男子の無遠慮な目とは無縁に生きてきたけれど、たぶん私の中学にもそうしたものはあっただろうし、私には相当厳しい評価がつけられていただろう。
かわいくない女の子への評価の厳しさはぞっとするもので、これがかつての私にも向けられていたものなのだ、あるいは今も向けられているのかもしれないのだと思うと、もう外に出るのも怖くなる。
結佳の思いが向けられる相手である伊吹はそんな恐ろしい学校世界とは対照的にどこまでも綺麗でまっすぐで(その綺麗さは無神経さと背中合わせである)、正直リアル感がないくらいだ。実は伊吹は結佳の心の中だけに存在して、結佳の苛烈な通過儀礼を司る存在、ととらえても違和感がないほどに。
小学校時代はクラスの女子たちの憧れで堂々としていたけれど、中学では上位グループからの転落を恐れてまわりに媚を売っている若葉ちゃんの方が、脇役だけれどよほど生々しく人間らしい。
結佳と伊吹の関係の行きつく先をより美しくする効果はあったが、23の汚れた大人の私は、性なんてそんなに綺麗でも、神聖でもないと思う。
読んでいてどうしてこんなに心が苦しくなるのだろうと思ったが、醜さの描写に容赦がないことが理由の1つだろう。小学校では若葉ちゃんと仲良しだったけれど、中学では「キモイ」と認定された信子ちゃんに関して「服の襟に歯磨き粉が飛んでいる」「にきびだらけで脂ぎった顔」、結佳自身に関しては「貧相な上半身に不釣り合いな太い下半身」「目は小さいく、頬がこけた骸骨のような顔」など。美男美女ではない主人公は星の数ほどいるが、ここまでひどく書かれているのは初めて見た気がする。多分「俺(私)は冴えないオタク」みたいな主人公の方が作者によほど優しくされている。
最終的に結佳はスクールカーストの外に蹴りだされる。初めて自分の言葉を得て、身の回りにあるものを自分で形容していく。その中で、周りから植え付けられたものでしかなかった美醜の基準を手放し、自分は何を美しいと思うのか、自分だけの基準を確立していく。ここの展開とこの部分の文章は本当にすがすがしい。
ちょっと話がずれるが、この小説を読んで「可愛い」という言葉が世界から無くなればどれだけ楽だろうと思った。「美しい」は個人的で絶対的なものになりうるが、「可愛い」は社会的なものだからだ。
ムンクの「叫び」も宗像志功の版画も、芥川龍之介の「地獄変」も、私は美しいと思う。恐ろしいものや凄惨なものも美になりうる。
しかし可愛いには、か弱さ、未成熟さ、周りの人間にとっての都合のよさが含まれ、どうしても他者が絡んでくる。「かわいく」あるためには、人目を気にし続けなければならず、それによって自分は何が好きなのか、何を身に着けたいのかがわからなくなってくる。こんなうっとうしい基準「可愛い」を振り捨てたいと思いながらも、私は毎日腕毛を剃り、ブラウンのアイシャドウとピンクのリップを塗り、ニコニコと明るいドジ話をする。私はまだ、他人の目を捨てられない。
濡れた床恐怖症
私には、子どもの頃から苦手なものがある。
共同浴場の床、脱衣所の床、プールサイド。
つまりは濡れた床が駄目。
小学校のプールの着替えも、その後の水泳の授業も苦痛で仕方なかった。まあ、カナヅチだからっていうのもあるけど。
昔風呂場とシャワールームが共用の寮に住んでいたけど、毎晩大急ぎで体を洗って、ビショビショの髪のまま脱衣所を飛び出した。
本当に小さい頃、10歳にもならない頃はそうでもなかったのだが。父によくプールに連れて行ってもらっていたし。
いつからか、プールサイドに誰かの膿や体液や剥がれた絆創膏が落ちている気がして耐えられなくなった。
寮生活では、ほかの寮生が風呂場で歯磨きをしているのを見てゾッとした。
不思議なもので、私は全く潔癖症ではなくて、汚部屋住みといってもいいくらいなのだけど、濡れた床だけがともかく駄目だ。
ちなみに、自宅の風呂場や2人部屋の寮の風呂は平気だったから、おそらくは不特定多数が歩く濡れた床だけが駄目らしい。
水を通じて汚いものが体に入ってくるのが嫌なのだろうか。入浴すると指がふやけるみたいに、水は体に染み込んでくるから。裸足という無防備な状態も汚れを防ぎようがないし。
今は両親と暮らしているから風呂場の床も平気だし、日常生活に支障が出るほどの苦手ではない。
強いて言えば、いつか友達と温泉に行ってみたいけど、脱衣所と風呂場の床を想像するだけで意思が崩れることかな。まあ今コロナパニックで、温泉旅行なんて行ってる場合ではないのだけれど。
女性なのに、女性の体にしか興奮しない
性的なものを見て興奮する。それは体のシステムだ。
それでは性的なものって、何で決まるんだろう。本能?それとも社会の価値観?
私は女性で、ほぼ確実に異性愛者だ。これまで恋をした人は全員男性だった。
でも男性の裸を見て興奮する、ということが一切ない。女性の裸とか、グラビアには興奮するのに。AVは男性の体を目にするのが嫌で見ない。ちなみに自分の体は何とも思わない。
だからセックスするときも興奮できなくて困った。
処女の頃は、そういうときにはなんらかのスイッチが入ってエロい気持ちになるものだと思っていたのだが、全然そんなことはなくて。
目の前の男性の体を見ても全然エロい気持ちにならず、頭は冴えたままで、早く終わらないかな、なんて思っていた。
男性が女性の裸体を見てエロい気持ちになるのはシンプルな話だ。女性の裸はエロいもので、エロいものを見たら人間は興奮するのだから。
でも逆だと話はだいぶ違ってくるのだ。男性の裸体をエロいと思う人は多くないのではないか。温泉番組でも、女性はタオルを巻いて湯に入るけど、男性は下腹部しか隠さないし。この理屈だと男性の下腹部はエロいということになるけど、別に見ても何とも思わなかったしなあ。
ほかの女性はセックスのとき、どうやって興奮してるんだろう。相手の体を見てエロい気分になるんだろうか。それともエロいことをしている状況に興奮するのか。あるいはすべて演技なのか。
セックスは謎めいている。
深夜テンションでえらいものを書いてしまった。
ジャニーズ山下智久さんの活動休止について
ジャニオタの友だちのインスタが騒がしいから、なんだと思ったら山下智久さんと亀梨和也さんの処分。
以下のことは全てジャニオタでもなんでもない一般人の憶測である。
ジャニーズ事務所の報告で、あれ?と思ったのは週刊誌にあった、山下さんが未成年の少女とホテルに行った件についてノーコメントだったこと。
山下さんはこれがあったから活動休止、亀梨さんはホテルには行ってないから厳重注意なのだと思ったのだが。
まず、ホテルの件がでっち上げの場合について考えてみよう。
あまりにもバカバカしい嘘だからスルー。あるいは、否定して週刊誌を訴えるのは大変だし、ジャニーズは山下さんのためにそこまでする気はない。
前者は無理がある。週刊誌報道が出た瞬間から、大衆の注目はホテルの方だった。Twitterのタイムラインでも、飲み会に言及する人は少なかったと思う。あそこまで騒ぎになった以上、山下さんの名誉のためにもちゃんと否定するべきだ。
後者に関しても、人気者で稼ぎも多いであろう山下さんを事務所が守らないとは思えない。
では本当にホテルに行っていた場合。
少女の年齢を知らなかった、あるいは成人だと思い込んでいたということがあるものだろうか。初対面か、数回会っただけで人間関係もつくれていないゆきずりの相手と、山下さんはセックスしたことになる。だいぶやばいヤリチンだ。
ジャニーズのアイドルに限ってさすがにそんなことはないか。では彼女の歳を知っていたのだろうか。
未成年というのは、大人にとっては保護する対象であり、性欲を向ける相手ではない。たとえ未成年の少年少女から誘ったとしても、大人はそれを拒絶し、そんなことはしてはいけないと教え諭すものだ。それはイケメンのジャニーズアイドルでも同じこと。山下さんがそうしなかったとしたら、それは大人としての義務の放棄であり、活動休止という処分は当然のことだと思う。