映画「静かな生活」観ました

伊丹十三監督・脚本の「静かな生活」をツタヤで借りてきてみた。

もともと大江健三郎の「イーヨーもの」とでも言うべき作品が好きで、この映画となった「静かな生活」のほかに「恢復する家族」「新しい人よ眼ざめよ」、そして「個人的な体験」なども読んできた。

そういう意味でひいき目にはなってしまうが、私はとても良い映画だと思った。

 

以下、映画の結末を含むネタバレがあります。

 

 

まず、ひとつひとつの場面が丁寧に作り込まれていることに驚いた。

日本にあるパパの書斎と枕元、オーストラリアのパパの住居(8か月ほどの仮住まいであるのに)も本でいっぱいだ。本の山という視覚情報により、パパが作家であるということに説得力が出ていた。なんというかすごく、「作家の自宅」であることにがしっくりくるのだ。

また、マーちゃんとイーヨーが一緒に電車に乗っているときにイーヨーの調子が悪くなってしまい、乗り合わせた少女に「落ちこぼれ!」と言われてしまう。この少女みたいに酷いことを言う人は世の中に多くないだろう。しかし少女の周りの乗客たちは、怒りはせずともなんとも困ったような、自分に危害が及ぶのではとおびえたような表情をしている。乗客が単なる電車内の風景ではなく、イーヨーたちがうける逆風を象徴していた。私は電車で、自分とは立ち居振る舞いが違う障がい者が乗り込んできたとき、こんな顔をしてしまっていることはないだろうか?とはっとさせられた。

 

この映画について多くの人が語っていることだが、音楽も美しかった。ときに明るく、ときに切ないのだが、常に柔らかさ、優しさがある。イーヨーの魂の清らかさが表れているように思う。今回のBGMがすごくよかったこともあり、大江光のCDを注文した。

 

印象に残ったキャストとして1番最初に思い浮かぶのは、ほとんど出ずっぱりということもありやはりイーヨーだ。私には障がい者の知人はいないので、彼の演技がリアルであるかということは、わからない。しかし後半でイーヨーが恋したお天気お姉さんの言葉どおり、透き通るような表情に心の綺麗さが溢れていた。何より、作曲時の自分の世界に入り込んだときの表情が見事だ。清らかさはそのままに、芸術家の顔をしていた。

登場シーンは少ないがオーちゃんのひょうきんさにも好感を持った。マーちゃんとイーヨーふたりの物語にするためだろうか、オーちゃんは原作と比べてかなり出番が少なくなっており、理屈っぽくて若者の少々憎たらしい感じも薄れている。イーヨーとオーちゃん、しっかり者のマーちゃんの3人はすごくバランスが取れた、良いきょうだいだと思う。

パパは出番こそ少ないが、要所要所で強烈な印象を残して行った。彼の「祈り」に関する講演にはうるっとくるものがある。言葉を発さなかったイーヨーがパパに肩車されて「クイナです。」と言った瞬間のパパの驚きと、もう1度クイナが鳴いてくれないだろうかという「祈り」。2度目の「クイナです。」までの間ににじみ出ていた。

個人的にすごく好きなのが団藤さんの奥さんだ。エネルギーにあふれた元気な人であると同時にすごく考え深い人。だからこそ団藤さんとマーちゃんに絶対に必要な人。

なお、ポーランドで団藤さんが政府高官に「そんなことをしていて何が共産主義だ」と英語で怒鳴りつける場面があったが、確か原作ではポーランド語だったはずだ。ポーランド語にすると観客が理解できないうえに、彼の本業が東欧文学者であるという設定が無くなっていたので英語にするほかなかったのだろうが、ポーランド語で高官に怒鳴るという独特のかっこよさが省略されたのは、少し残念だった。

 

障がい者の兄の世話をする妹、彼らが社会で直面する偏見、精神的な「ピンチ」のため不在の父。かなり深刻な内容なのだが、これを和らげるユーモアが随所にある。原作も結構ユーモラスな場面が多く、作品のテンションは原作通りだと感じた。

意気揚々と排水管の掃除をしたものの、大失敗してしょげかえり、何時間も(庭の明かりの変化で時間の経過が表されていた)うつむいて、膝を抱えてしゃがみこむパパ。映像の力もあり、ノーベル賞作家(をモデルとした人物)に一体何をやらせているんだと、原作を読んだとき以上に笑った。

自殺の実験をママに見つかって叱られたときも、本気で慌てたパパのしぐさはコミカルだった。

例の、電車で「落ちこぼれ!」と言われた一件のあと、料理中にそのことを聞いた団藤さんの奥さんが何かの生地を台に叩きつけながら怒るのだが、そのときに思いっきり粉が舞い、隣に立っているイーヨーがそれに閉口した顔をする。あのねイーヨー、この人はあなたのために怒ってるのよ、粉どころじゃないでしょう。でもこのイーヨーのおかげで、ショックを受けていた観客も一息つくことができるのだ。

マーちゃんと団藤さんの奥さんが、新井さんの事件の映像を見ているとき、暗いBGMが流れている。その裏でイーヨーの「ろっこつ」を聞いていた団藤さんは、映像が終わったタイミングで、「イーヨーの音楽を聴くと心が癒されるねえ」なんてのんきなことを言いながら出てくる。心が癒されるって、今流れていたのは怖いBGMなんですが…と突っ込みを入れたくなったので、間違いなくこのタイミングと台詞は狙ってやっていると思う。

 

原作では仏文科の学生で、セリーヌの研究をしていたマーちゃんは

映画では絵本作家を目指し、家族のことを絵に描いている。セリーヌの章は原作でも最も難解な部分なので、カットしたのは正解だと思う。大江健三郎の妻ゆかりさんは写生をする人で、彼女が書いた家族の絵は「恢復する家族」の挿絵にも使われている。ゆかりさんの絵の要素がマーちゃんに託されると同時に、映画ではパパは小説、イーヨーは音楽、マーちゃんは絵と、主要な人物それぞれが表現する方法を与えられているのだなと思った。映画では一切語られなかったが、マーちゃんが選んだのが絵本なのは、イーヨーが読んで楽しめるからだろうか。

 

終盤でマーちゃんがイーヨーの水泳コーチ新井さんに乱暴されそうになる。そこでいつもマーちゃんに守られていたイーヨーが、あれだけ慕っていた新井さんにとびかかり、妹を助け出すのだ。この場面は原作と映画で若干の違いがあり、原作でマーちゃんは助けを呼ぶために、イーヨーと新井さんを残してマンションから飛び出す。作中はじめてマーちゃんが「逃げる」のだ。家に変な水を持ってくる不審な男を、ひとり自転車で追いかけたマーちゃんが。結局助けてくれる人は見つからず途方に暮れていたマーちゃんを、イーヨーが迎えに来る。

映画版ではマーちゃんは逃げずに、部屋にあったヨットのオールで新井さんを殴りつけて、イーヨーと二人でマンションを飛び出す。泣き崩れるマーちゃんをイーヨーが慰める、という流れだった。そこに新井さんがふたりの荷物を投げつけるのだが、その中に彼が「プレゼントする」と言っていた水泳教本があり、なんともやりきれない思いがした。

イーヨーの家族愛と成長が最も表れる感動的なシーンであると同時に、原作では助けてくれる人が見つからないし、どっちにしても新井さんはおそらく一生このままだし、結構切ないシーンでもあると思う。ここでイーヨーの「マーちゃんは大変でしたが、私が戦いましたからね。」が僅かな救いになっていたのではないか。

 

大江健三郎の「静かな生活」だけでなく「恢復する家族」も映像になっていて、両方読んだ者としては嬉しかった。イーヨーの「元気を出して、しっかり死んでください。」というセリフは「恢復する家族」のもので、言葉のチョイスは間違いなのだろうけど、そんな彼の言葉がおばあちゃんを大いに励ますというエピソードになっていた。ちなみにこの話、私が小学生の頃に解かされた国語の問題に出てきた事が有り、先月約10年ぶりの再会を果たした。

イーヨーがお天気お姉さんに恋をする話は完全に映画オリジナルだ。(というか、イーヨーの恋愛に関する話はどの小説でも読んだことがないと思う)しかしこの中にも、「恢復する家族」からとられたと思われるモチーフがあった。絶対音感を持つイーヨーはお姉さんに初めて会ったとき、天気予報の時よりもお姉さんの声が「一音高い」と指摘する。そしてこの恋が終わるとき、お姉さんの別れの言葉が「一音低い」と言う。

「恢復する家族」では、電話をとったイーヨーが、電話口の知人の声が「普段より一音低かった」と口にする。その翌日、知人は急死するのである。

ついでに言えば、お姉さんとイーヨーのあいさつとなった「予報」は「雨」だった。この予報は外れていたけれど、これはお姉さんの行く末の予報だったのではないか。柄が悪い男と共に去っていったお姉さんが幸せになれたとは思えない…。

 

大きな違和感を覚えた点が1つある。パパの小説の再現部分だ。思いを寄せる少女を手にかけてしまった少年は「自分の人生が終わった」ことに愕然とし、現れた浮浪者は少年をその境遇から救うことにする。

マーちゃんは浮浪者の感情を分析しているが、作中誰も、突然現れた高校生に、無残に命を絶たれた少女に心を寄せない。同じ女性であるマーちゃんでさえもだ。

劇中劇の本筋がそこではないのは分かっているのだけれど、どうしても、少年を絶望させるためだけに登場し、殺されたような少女の扱いがひっかかってしまった。現代この映画がもう1度作られるとしたら、おそらくこの場面には何らかの変化が加えられることだろう。